皐月1日、『志田周子の生涯を銀幕へ甦らせる会』製作資金1億円の募金活動出発式が湯殿山神社で行われた。西川町役場に口座も開設され、いよいよ皆さんの熱意が目に見える数字となって現れることになる。いやぁ、どげなっべね? 最初の1カ月で、いったいなんぼ集まるのか。ドキドキワクワクである。私の生まれた町・尾花沢では、口座開設のだいぶ前から「みかちゃん、がんばれ」と寄付を持ってきてくれた方がいた。「ちょぺっと待ってけろ」「んだって気持ちだもの」思い立ったらすぐ動くその姿勢、好ぎだぁ。あなたは間違いなく、寄付第一号。本当にありがとさまです! 1円たりとも無駄にできないねと皆で話しております。ふんどし締め直して進みますから、どーが見守ってけらっしゃい。
さて。今回は、初めて大井沢を訪れたときの話をしよう。2011年7月18日、爽やかな風が吹く山形駅に、私とプロデューサーは降り立った。前日から珍しく緊張していた私は、当日の朝になってもいつもの調子が出ず、お昼の山菜そばに至っては、ちょぺっと残してしまった。(食いしん坊の私にはあり得ないこと)それでもなんとか取材を一つずつ済ませ、副町長さんとも面会し、診療所だった場所を見学し、夕方、ようやく初日のスケジュールを終えようとしていた。「周子先生のご実家がすぐ近くですので行ってみますか?」との提案に、ここはプロ根性の見せどころ、本当は宿で横になりたいのをぐっとこらえ「はい、行きます!」と言ってしまった。ご実家には周子先生の実弟がいらっしゃるという。ぜひお会いしたい、お話を聞きたい、よし、もうちょぺっと頑張るべ。
周子先生のご実家は、診療所跡からすぐ近くの所にあった。突然の来訪にもかかわらず、弟の悌次郎さんと奥さんが我々を迎えてくれた。挨拶をして玄関に入る。そのときだった。毛穴という毛穴がぷわーっと開き、へんな汗が頭のてっぺんから垂れてきた。胃袋がぎゅうーっと締め付けられ、気を抜くと山菜そばが出てきそうになる。ハンカチで口元を押さえ、皆に悟られないように踏ん張った。体に異変が起きていた。「こんな大事なときに……やばい、一体どうしたんだろう? おがしい、おがしい」私は焦り、一人で混乱し、かといって誰にも言えず、必死で弟さんの話を聞こうと耳をすませた。でも、今度は耳までよく聞こえなくなってきた。正直に言って、あの日のことはあまり記憶にありません。悌次郎さん、ごめんなさい。私は途中でこんなお願いをした。「あの、すみませんが後でお線香をあげさせてもらえませんか? 周子先生にご挨拶したいです」「かまいませんよ。あぁ、そういえば今日、命日だな」「え? 今日ですか?!」「んだ。(時計を見て)あぁ、ちょうど今頃だ、亡くなったの」……断っておくが、私には霊感なんてありません。この話、次回へ続けてもいいべが?